「あの雲」みたいな短編小説 「逗子の人妻。」
2021.07.20
「あの雲」みたいな短編小説

逗子の人妻。

 

鎌倉、葉山、湘南・・・
青春のキーワードが散りばめられた街に来た。

「余命半年になったら抱かせてくれる!?」これだけが言いたくて、湘南ライナーに乗って、ここまで来た。逗子駅手前の踏切り近くのカフェで待ち合わせをした。ミドリは、43歳。あの踏切が開くのを待つ白いスカートの後ろ姿の人妻だ。

「旦那さんは、おいくつ!?」
「56歳」
「どこで知り合ったの」
「逗子マリーナのユーミンのラストコンサート」
SURF & SNOWとタイトルされたユーミンのコンサートは、逗子マリーナで開催されていた。1978から2004年までの計17回。結婚してから15年近くが経つというわけだ。

「旦那が40歳で、私が28歳のとき」
「旦那さんは、初婚!?」
「バツイチ」
これ以上聞くなという紋切り型のお返事。ミドリは、新潟から東京に憧れて25年前に上京したという。1995年のSURF & SNOWが初体験。「真夏の世の夢♫」がコンサートのトリの楽曲だった!?という記憶を語った。

「住んでいるところは!?」
「ここからバスで15分くらいのところ」
「ご家族は!?」
「旦那と中学生の息子がひとり」
逗子マリーナへは、逗子駅から鎌倉行きの京浜急行バスに乗って約12分。車窓から見えてくる無理やり植えたヤシの並木が夢の跡のようで痛々しい。バブルの端っこで浮かれていたミドリの旦那の顔が浮かぶ。

ユーミンが炙り出したのは、田舎から出てきた女性達の、日常生活に浸食されることのない恋愛や生き方への内向的自意識。良く考えてみると、その歌詞からは、リアルそうだけど、決してリアルではない自意識が見えてくる。今どきの、スマホ世代の女性達には、なかなか理解できない心情だろう。ユーミンは「美空ひばりが復興の象徴なら、私は、繁栄の象徴である」と言ったと言わないとかという伝説も持つ。

「運命の出会いだねってことで結婚して・・・運命の出会いだねって、ここ逗子で暮らし始めて15年」

もう夏だというのに、逗子の駅には、子どもの声がしない。日に焼けたお姉さんなど見かけることもない。待ち遠しかった夏がうっすらと消えている。新型コロナウイルスのせいだ。鎌倉の隣駅は、夏も、繁栄も止まっている。

90分くらい話したが「余命半年になったら抱かせてくれる!?」なんて軽口はたたけなかった。旦那の話は、ひとつもしなかったミドリは、あの踏切を渡ったところにあるバス停へ向かう。

きっと、人妻は、いちばんうしろの席に座ることもない。2人席にも座らない。1人席に座って、何も考えることなくヤシの並木を眺める。夢の跡を辿って帰る。息子だけが待っている。

逗子には、電車よりバスが似合う。
なかなかやってこないバス停の方が似合う。

 

「あの雲」みたいな短編小説バックナンバーはこちら

文/中村修治

企画会社ペーパーカンパニーの代表取締役社長。PR会社キナックスホールディングスの取締役会長。福岡大学非常勤講師。滋賀県出身。Good不動産やJR博多シティのネーミングなども手掛けた戦略プランナー。西日本新聞「qBiz」やitMedia「BLOGOS」のコラムニスト。フェイスブックのフォロワー数は、9000人越え。

http://nakamurasyuji.com/

一覧へ