文/中村修治
企画会社ペーパーカンパニーの代表取締役社長。PR会社キナックスホールディングスの取締役会長。福岡大学非常勤講師。滋賀県出身。Good不動産やJR博多シティのネーミングなども手掛けた戦略プランナー。西日本新聞「qBiz」やitMedia「BLOGOS」のコラムニスト。フェイスブックのフォロワー数は、9000人越え。
能登の地震に思うこと。
能登半島に大きな地震が襲って約1ヶ月半。たくさんの支援物資が運び込まれている。全国からの善意が集まっている。不埒な輩の出没も報道では取り上げられるが、おおむね被災地での日本人のモラルある行動はミラクルだと伝えられる、イッタイ、ドウシテナノカ?
前田英樹著「日本人の信仰心」(筑摩選書)には、昭和の文人・保田輿重郎の語る日本人の倫理の源泉が書かれている。米といくらかの雑穀、豆、野菜などがあれば、人間は誰もが 豊かに身を養うことが出来る。それを保障する、水、土、光、空気と人々の協同があれば、人間は何ものをも殺さず、侵さず、恒久の循環に生きていくことがで きる。「米づくり」を原理とする、「足を知る」精神が、この国の倫理と道徳のルーツであると。
そして、この著書に記されている次の文章を読む度に、田んぼが遊び場だった田舎生まれの私は、何故かしら涙が出てくる。
「自然の所与は、課せられた圧倒的な問いであり、米の収穫は、それへの回答である。問われては答え、問われては答える。問いは、毎年異なる。いや、あらゆる時 に異なってくると言えるだろう。水、土、光、空気の流れは、刻々に変化している。生育する稲は、それらの変化に刻々と応じる。それらの性質を分離させて は、新しく束ね、また拡散させる。それらの性質の限りない差異に入り込み、選り分け、結びつけ、流れの中に驚異的な統合の線を創り出す。そうして、米がで きる。農村の父達が、ほんとうに信じているものは、都会人が教える効率でも、利潤でもない。この働きだけである」
漁業や 農業は、自然からの「問い」の連続である。その変化に刻々と答え、問いの向こうに未来を信じ続けてきたのが、私達・日本人なのである。だから、何度も、天変地異に遭いながらも、その村で、農業や漁業を営んできた。利潤をあげる計算に口先で賛成しながら、決して従わない。そうして、何度も地面が裂ける街に暮らし続けてきたのだ。
そういう日本人は、どんなに苦しい時でも、みんなが整列してものを買う。なぜなら、これも大きな自然からの「問い」であると無意識に思っているからである。この「問い」の先に、きっと未来があることを知っている。それが身体に染みついているから、みんなが整列して、身を携えるのだ。
「なぜ日本人は、こんな時でも整列してモノが買えるのか?」その答えは、漁業や農業に従事している高齢者の皆さんと私達・日本人が、利潤という考えを欠いた思想でつながっているからである。学習というには、あまりにも惨いが、、、自然災害は、人間に与えられた究極の学習機会である。学ばねば・・・未来に何も残せない。