謹之助の語り部 episode2
2021.03.30
謹之助の語り部

HIGUCHI GROUP創業者、樋口謹之助の言葉や逸話を、時代を超えて様々な社員が独自の視点で解説する企画「謹之助の語り部」。圧倒的な反響を受け第2回目を掲載。

第2回目の今回は、HIGUCHI GROUPのDNAの根幹をなす概念“大衆”についての解説です。それではどうぞ。

 

「雑踏の中に憩いと安らぎを求める人々」

 

今回の語り部 : 取締役スタッフ本部長 / 吉村正彦

産業文化史「大衆に憩いと安らぎを」(牧野茂 著)のなかには、そのタイトルを構成するキーワード「大衆」について、創業者の思いを語る次の一節があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
飲食産業の現状は、単に市場メカニズムを通して、「ハンバーガーをいかに売るか」に血道をあげているに過ぎなかった。これでは、客のニーズを本当に満足させることはできない。飲食産業は客の要望に応えるために価値を提供していく産業であるが、客の要望は、医学的要素と宗教的要素の二要素から成り立っている・・・・と謹之助は考えていた。
医学的要素とは〈生き延びたい、健康でありたい、腹いっぱい食べたい〉と言う生理的欲望であり、宗教的要素とは、〈うまいものを食べたい、食べることによって安らぎを感じたい、食事を媒介として行事を行いたい〉と言う精神的欲望である。この二つの要素を分析し、把握することから出発しなければ、客のニーズに応えることはできない。そのためには、栄養学はもちろん、生理学、心理学なども幅広く取り入れることが必要である。飲食産業は、理論の時代、学問の時代に入った。家庭の主婦が料理をするのに理論はいらない。しかし、われわれはプロフェッショナルである。理論の裏付けがあって、はじめて主婦の作れないプロの料理を提供できるのではないか。・・・謹之助はそう信じていた。
ただし、人間の欲望、ニーズといっても、まさに千差万別であった。ぜいたくな欲望もあれば、ささやかな欲望もあった。謹之助が対象とする顧客層は、終始一貫“大衆”であったが、それは必ずしも、ささやかな欲求だけを対象にしたわけではなかった。一般的に大衆と言うと、所得階層別のとらえ方がされるが、謹之助は人間行動パターンの中に大衆をとらえていた。彼自身の言葉で言えば「雑踏の中に憩いと安らぎを求める人間行動・・・そこに大衆がある」と言う考え方である。たとえば、大会社の社長でも、人ごみに紛れてナワノレンをくぐり、人なみに楽しみたいと思う時がある。その時その社長は、もはや大衆の一人になっている。逆に、所得の低い人でも、ときには外で豪華な食事を楽しむこともある。
要するに、大衆とは所得の額に関係なく、雑踏の中で食事を楽しもうとするすべての人であり、そういう人たちが望む食事は安物とは限らないという考え方が基本になっていた。そこに、〈できるだけ安い値段で本格料理を〉という「お手軽割烹ひぐち」の原点があった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ここに私たちが受け継ぐべき二つのことがあると思います。

一つ目は、理論武装することの必要性です。

私たちはついつい、いかに売上高を上げるか、いかにして売るか、とすぐに考えがちですが、お客様が何を求めているのか、どんな価値を求めているのか、を出発点にしなければなりません。さらにそれは、経験に基づく勘によってではなく、順序だてて展開された(=論理的)思考を積み上げた体系的な考え方(=理論)によらなければなりません。理論なき仕事は作業にすぎません。作業は店の数が増えるほど正しく伝わりません。正しく伝わっても1年もしないうちにマンネリ化し、大きな環境変化が起きると破綻してしまいます。

そして、理論は次世代へ伝えていかなければ、個人も企業も成長しません。理論武装するためには、知識も当然必要ですが、それを順序だてて組み立てる論理が必要です。経験に加え、知識習得と論理学習の必要性を強く認識した創業者は、それを指して「理論の時代、学問の時代に入った」と言ったのです。それからすでに40数年経ちました。我々は経験と勘ではなく、事業理論と言えるものを伝承できているでしょうか。

 

 

二つ目は、大衆とは何なのかということです。

最近では減りましたが、昭和の時代には大衆食堂という看板をよく目にしました。「大衆」が頭につくと価格が安いことをイメージしがちです。しかし創業者は、単に安価を目指していたのではありません。大衆とは、サービスの対価の視点ではなく、サービスを受ける人の行動の視点なのです。つまり「雑踏の中に憩いと安らぎを求める人々」です。

「雑踏の中に」とはどういう状況なのでしょうか。雑踏とは、一般的には多人数で込み合っていることですが、他にも要素があると思います。まず雑踏には秩序がありません。“集団”のように統一の価値観や意思がありません。むしろあってはならないのです。

次に雑踏には匿名性が必要です。どこの誰だかわからない人々なのです。自分もまたその誰だかわからない人たちの一部を構成するワンピースとなるのです。また雑踏は、静寂ではなく喧騒を伴います。人の会話や動きはあるのですが内容は認識できず、それらから介入されることもありません。いわばBGMのような役割です。そのような環境に身を置くことによって、まるで保護色のように個としての存在を消すことができます。その反作用として自分または自分たちの内面に向き合い、存在感と安心感を得るのでしょう。

 

※賑わうお手軽割烹ひぐちの店内

 

昨年閉店した「お手軽割烹ひぐち」もそうでしたが、令和元年に開店した「大衆割烹樋口」は、まさにその思想を具現化しているお店です。コロナ禍によって雑踏は回避されるようになりましたが、回避すればするほど、その価値は増してきたと思います。

人は社会的な生き物であり一人では生存できません。家族や友達ではなくても周りに人がいることが必要なのです。今回のコロナ感染者の拡大もあり、わが国でも今年「孤独担当大臣」ができるほど、孤独が社会問題となっています。災害や紛争など人々の不安が高まる状況ほど、憩いと安らぎが必要です。「雑踏の中に憩いと安らぎを求める人間行動・・・そこに大衆がある」という考え方は、40年以上経過した今、むしろ輝きを増しています。

HIGUCHI GROUPの理念として語り継がれている「大衆に憩いと安らぎを」という言葉を正しく理解して、お客様の求める価値を追求し、それを一つの理論として次の世代へ伝えていかなければなりません。

 

謹之助の語り部バックナンバーはこちら

一覧へ