大人の階段は降りるもの。
何年も難なく昇り降りしてた階段にある日躓いて転ぶ。
それ以来その階段を憎んで嫌う、
これが「嫌悪」だ。
神社の急な階段を昇ることができなくなったときに
神様に、もう命乞いをできなくなったことも知る。
これが「老い」だ。
名も知らぬご近所の階段を懸命に昇るのはいいけれど
ここを降りて帰るのかと思うとドキドキと心臓の音がする。
これが「いまのワタシ」だ。
いつもは聴かない心臓の音を聞くとき、、、
結局 この自分とつきあうしかないと思う。
ワタシに選択肢なんかないことを階段が教えてくれる。
ときどき死にたくなるような風景に出くわす。
それが「階段の頂上」だ。
キレイとか、そういう類のものではない。ちょうどいい高低差があって、でも先が見えなくなって、切ない感じのこういう風景。そこに、無為にしてきた「時間」が見えてきたとき、ちょっとだけ死にたくなる。
心が弱っているときは、
この先が海になっていて、
そのまま歩いて沈んでいけたらって思うことがある。
不思議だが、そういう気分の時って人に優しくできる。
大人の階段は、降りていくためにある。
優しくなるためにある。
文/中村修治
企画会社ペーパーカンパニーの代表取締役社長。PR会社キナックスホールディングスの取締役会長。福岡大学非常勤講師。滋賀県出身。Good不動産やJR博多シティのネーミングなども手掛けた戦略プランナー。西日本新聞「qBiz」やitMedia「BLOGOS」のコラムニスト。フェイスブックのフォロワー数は、9000人越え。